代々木まち語り

代々木今昔物語

●昭和初期の代々木。

昭和2年4月、小田原急行鉄道小田原線が開通。新宿駅を始点に、当地には、千駄ヶ谷新田駅、山谷駅が開設されました。開通当初は、新宿〜小田原間が、2時間半かかったそうで、運賃も片道1円36銭。当時としてはなかなかの大金で、気軽に江ノ島へ海水浴というわけにもいかなかったようです。

昭和7年10月1日、大東京市誕生。東京市周辺郡部が合併され、新たに大東京市35区制となって、渋谷区が誕生しました。渋谷町、千駄ヶ谷町、代々八幡町の三町が合同して成り立ったものです。

昭和10年頃の代々木駅

昭和11年、次期オリンピック開催地として東京が選ばれ、明治神宮裏参道口〜代々木駅前〜新宿駅南口を結ぶ道路がマラソンコースとして、また代々木駅前〜参宮橋間は、その補助道路として指定されました。道路整備を行うことになりましたが、支邦事変の勃発により、東京大会は返上となり、道路整備事業もストップ。

昭和13年北参道の修養団前付近

昭和15年11月3日、皇紀二千六百年記念事業により、明治神宮裏参道口(千駄ヶ谷門)〜代々木駅間の明治神宮裏参拝道が開道して、町の様子が一変します。大きなビル建築が始まるようになり、駅前の高層化の走りとなりました。

昭和18年7月1日、東京都制が施行。東京を都とし、全国を都道府県と呼ぶようになります。現在の「代々木一丁目」は、一部が代々木山谷町、及び千駄ヶ谷四丁目、五丁目と改称され、34年の再改称まで、人々に親しまれる町名となりました。
しかし、この年の暮れ、代々木駅東口(新宿御苑側)は、戦況悪化のため、駅員不足となり、やむなく閉鎖されたのです。

昭和20年4月13日、深夜、米軍機B29約160機による猛爆を受けます。3時間にわたる爆撃で、各所には火災が発生し、神宮の社殿も全焼。続いて、5月24日、25日と、さらなる大空襲を受け、代々木一丁目一帯は、ほとんど焼け野原となってしまいますした。
この模様を当時の新聞は「かって繁栄を誇った街並みが・・・見るも無惨な一面の瓦礫の原と化して拡がり、はるか遠方まで見とおせる光景はあたかも明治初期に戻ったかの感が・・・心の安らぎとなる緑の色はわづかに神宮の森・・・・・」と記しています。

地図で 業種で 店名で クーポン券で